2021-10-31

No sports, no life

 今日は雨でナイターテニスができません。時間ができたのでこれまでのスポーツとの関わりについてざっと書いてみようと思います。私にとってはスポーツとは球技です。小学校でのドッジボールや放課後にやる友達との野球とサッカーが大好きでした。球技をするまではメンコとかプラモデル、団子作り、プロレス観戦、蝉取りなど一過性のイベントにに夢中でしたが、小学校3年生の時に木製バットとミズノのグローブを買ってもらってからは野球、4年生の時にサッカーボールを買ってもらってからはサッカーが楽しかったです。同じマンションで仲の良かったしんちゃんとしんちゃんのお兄ちゃんたちと野球やサッカーを学年関係なく一緒にワイワイ遊んだり、5,6年生からは同級生の友達と放課後に遊んだりして、どんどん友達が増えました。野球の上手い子たちが少年野球チームに入っているので自分も入りたいと一度母に頼みましたが、うちはムリやという感じでそっけなかったです。今考えると母も自分のテニスで忙しかったので子供の遊びにかまってられなかったのでしょう。その代わり、休日によくテニスコートに連れて行かされました。母も罪悪感があったのか一度コートでテニスさせられましたが、私としては野球がしたかったので反抗の意味も込めてホームラン狙いのスイングをしていると呆れられてそれ以来コートには入れてもらえませんでした。4年生からは神戸FCのコーチの方がボランティアで登校前に早朝サッカーのレッスンをしてくれたのでそこに通うようになりました。しんちゃんが熱心に練習するので私も一緒になってやっていました。休みの日には外大グラウンドで早朝ランニングにいったり、夜にマンションの駐車場でドリブル練習をしました。しんちゃんは一人でもやっていたようでどんどん上手くなっていました。(その後、高校では兵庫県選抜に入り大学はサッカーで関学に行ったそうです!)今ではクラブチームに入っている子が多いでしょうけど私たちの頃は殆んどの子は放課後に公園でサッカーして遊びながら体力をつけていました。サッカーやらないときは野球をしていました。私はどちらも好きで中学になったらサッカーか野球かどっちにしようかなあなんて考えていました。

多分しんちゃんがサッカーやるから自分もサッカーかななんて思っていましたが、なんと中学から東京に引っ越すことになってしまいました。中学ではサッカー部に入るつもりでしたが当初は越境通学で早朝練習に参加できないため一緒に仮入部して入るかどうか迷っていた井上君と相談して陸上部に入ることにしました。井上君は中1で180cmあったので2人でバレー部に誘われましたが、何となく結局楽そうな陸上部にしました。あのときバレー部に入っていたら父の後輩になっている所でした。そう、父も目黒十中でバレー部でした。その頃、男子バレーは大人気だったそうです。目黒十一中に木村という選手がいたそうで、父は木村、木村と呼び捨てにしていましたが、なんとミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得し数年前までバレーボール協会の会長をされていた木村憲治さんのことでした。陸上部では短距離をやりました。とにかくタイムを出すことがゴールなのでストイックに繰り返し練習することが重要になるのですが、記録が伸びないこともあり私には単調すぎたため高校になったら小学校の時に想っていたように野球かサッカーをやろうと決めていました。

春休みに甲子園を観て感動して野球部に入ることにしました。少年野球団にも中学野球部にも入っていませんでしたが、進学校だから何とかなるだろうと甘く見ていましたがやっぱり甘かったです。甲子園レベルではないかという同級生が2人いたのには驚きました。1人は小学校の時に北海道選抜に選ばれて、藤沢の中学ではエースで4番として神奈川で勝ち進んで、甲子園出場校からの推薦もあったという坪井君で、内外野どこでも守れるし右方向にホームランも打てるという反則的に上手い選手でした。もう1人は少年野球の仲間が東海大相模に行っていて、本人も本当は早実中に行く予定だったのに受験で(本番直前までジャンプを読んでいて)油断したため何故か学芸大附属大泉中に入ったという木村君で、肩の強さ、バッティングの飛距離とも超高校級でした。2人とも野球だけやっていればプロに行けたのではないかというレベルでした。(坪井は東大法学部から検事になり、木村は一橋大から電通に入りました。)私たちの代になったとき坪井にピッチャー、木村にキャッチャーをしてもらったのですが、彼らのおかげで(秋の新人戦を勝ち進み)春の大会2回戦、夏の大会3回戦まで行くことが出来ました。私を含め彼ら以外のプレーヤーがもう少し上手かったらもっと行けたのではと思いますが、皆やれるだけのことはやったと思います。私にとってあの高校野球部時代はかけがえのない思い出です。

大学では勉強するつもりだったので体育会の運動部には入りませんでした。中学から大学までバレー部だった父にそのことを伝えると驚いた様子でしたが、野球やり過ぎて浪人までしたので自然な判断でした。司法試験を目指していた坪井も同様で私は彼に誘われるまま硬式野球サークル(丁友会野球部)に不定期に参加していました。また、サッカーにも興味があったのでスポーツ愛好会サッカーパートというのに入って夏合宿に行ったりしました。とはいえ、この頃は全方位的に勉強したかったので語学や物理数学などに多くの時間を割き、長い休みにはバックパッカーとなっていろいろ回りました。知見も広がり大学院からはアメリカに行くことにしました。1年目はアリゾナにいたのですが、大学のテニスコートの環境が素晴らしく友達とナイターで良くテニスをしました。(アリゾナ大学はテニス・ゴルフでも有名で、テニス部にはアザレンカ、ゴルフ部にはソレンスタムが所属していたそうです。)2年目からはニューヨーク市立大に移りましたが、近くのコロンビア大学にいる日本人の方と仲良くなり週末は定期的にコロンビア大学のテニスコートで遊びました。忙しいときはテニスはせず家の近く(ブロンクスに引っ越してからはヴァンコートランド公園)を走っていました。

帰国後はスポーツどころではありませんでしたが、たしか2007年上の子が1歳になり少し落ち着いてから地元にあるテニススクールに週一回通いました。2012年、同い年の松井秀喜選手が引退したのをきっかけに私もマンネリ気味だったテニススクールを辞めることにしました。それ以降は地元の知り合いと公営テニスコートで定期的に(週1、2回)テニスをやるようになって今に至ります。野球やサッカーをやるには人数集めるのが大変ですが、テニスだったら2人からできるので気楽です。これからも健康維持を兼ねて生涯スポーツのテニスを地元の仲間と楽しんでいけたらと思います。

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