前回の続きで、このシリーズの最後のエントリーです。久しぶりに中学校の頃のことを思い出して感慨にふけってしまい頭がぼうっとなっていましたが、気を取り直して高校時代にお世話になった先生についても書いておきたいと思います。1990年から1993年まで東京学芸大学附属高校に通いました。1年生の時の担任は物理の小田切理文先生でした。入学早々に自己紹介もかねて順番にスピーチしましょうということになり、先生が最初に話をしてくれました。もう30年近く前のことですが良く覚えています。高校生の時にサーフィンに夢中になっていたそうですが、最後の夏に進学のためこれからはサーフィンできなくなるので、ビーチに深い穴を掘ってサーフボード埋めて、「さようなら、バイバーイ」と手を振りました、という話を穏やかながら情感あふれる口調で話されたのがとても印象に残っています。小田切先生には確か3年の時に実際に物理の授業を受けましたが、独自のプリントでの講義は分かり易く楽しかったです。ご高齢でしたが分子運動ダンスなど披露してくれて気持ちはいつも若々しい先生でした。
2年生と3年生ではクラス替えがなかったので、2年とも担任は英語の渡辺誠先生でした。このとき副読本の英語の教科書などで鍛えられたので、大学院でアメリカに行った際も読み書きは十分通用したのでよかったです。ただ、聞くのと話すのは現地で慣れないとやっぱり難しかったです。今でも英文を読んでいるとたまに渡辺先生の「この付帯状況の with の意味は?」といった言葉を思い出すことがあります。渡辺先生は相当な読書家で谷崎潤一郎の『細雪』を薦めてくれたことがありました。また、一度阪神ファンだとおっしゃっていたので、私にとってなじみの深かった阪神間の文化圏に理解があるのだと嬉しく思い、こういう人が東京のインテリなのかと勝手に解釈していました。(以前のエントリーで触れたように私の曽祖父は戦前の阪神モダニズムを体現するような人でした。)いつも淡々としておられましたが、怒るときはしっかり怒るいい先生でした。私が受験に失敗して浪人が決まった際には、電話で「今年は番狂わせが多かった」と気遣ってもらいました。一年後に合格の報告をした際には相変わらず淡々と「おめでとう、当然だよね」とねぎらってくれました。
担任の先生以外にも多くの先生にお世話になりましたが、野球部の顧問の中村穎司(えいし)先生のことは良く覚えています。一回り先輩の茂木健一郎さんがこちらでも書いていますが、穎司先生の現代文(評論)の授業は国語というより記号論のような授業で高校1年の私は面食らいました。その時習っていまでも標語的に覚えている言葉に「あるとあるべきと型」、「内包と外延」というのがあります。大学卒業後になりますが、野球部の仲間で司法試験に受かった友人が「あの穎司の授業はレベル高かった、司法試験でも役立った」といっていたので本当にいい授業だったのでしょう。文章を論理的に分析して評論するのは確かにスッキリしていて、それまでの国語の授業に比べて楽しかったです。穎司先生に影響されて小林秀雄の文章も色々と読むようになりました。毎年卒業前に野球部のメンバーは穎司先生のご自宅に呼ばれて御馳走になるそうで、先輩たちから先生の家は地元の名家らしくすごいという話を聞いていましたが、私は残念ながらクラスでスキーに行く日と重なり、先生の所に伺う機会はありませんでした。ネットで調べたところ先生の弟さんが
サロン中村古書画コレクション
以上、これまでのエントリーで小中高とお世話になった先生方について書いてみました。学生時代について思い出せるだけ何とか書いてみましたが、なんだかとても苦しい作業でした。もちろん楽しい思い出もあるのですが、あまり過去にこだわり過ぎるのは精神衛生上良くなかったです。これからはあまり振り返ることはせずに駆け抜けていこうと思います。
私にとって理想の教師像はヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演戯』
に出てくるヨーゼフ・クネヒトです。長年、ガラス玉演戯を極めることを目標としたアカデミアのような組織にいたのですが、後年そこを離れて一介の家庭教師として若者を教えていました。ある夏、その若者がヨーゼフ・クネヒトに湖を泳いで渡ろうと冒険を持ちかけ、クネヒトはその誘いを断ることなく湖を泳いでいると、その途中で亡くなった。そして若者の心に何か大きいものが残った、という話です。私は教師ではないので将来このようなことはおそらく無いでしょうが、万一学生や子供から冒険を持ちかけられたら、迷わずそれに乗っかれるだけの体力・気力・精神力を日々精進して付けておきたいと思います。
2年生と3年生ではクラス替えがなかったので、2年とも担任は英語の渡辺誠先生でした。このとき副読本の英語の教科書などで鍛えられたので、大学院でアメリカに行った際も読み書きは十分通用したのでよかったです。ただ、聞くのと話すのは現地で慣れないとやっぱり難しかったです。今でも英文を読んでいるとたまに渡辺先生の「この付帯状況の with の意味は?」といった言葉を思い出すことがあります。渡辺先生は相当な読書家で谷崎潤一郎の『細雪』を薦めてくれたことがありました。また、一度阪神ファンだとおっしゃっていたので、私にとってなじみの深かった阪神間の文化圏に理解があるのだと嬉しく思い、こういう人が東京のインテリなのかと勝手に解釈していました。(以前のエントリーで触れたように私の曽祖父は戦前の阪神モダニズムを体現するような人でした。)いつも淡々としておられましたが、怒るときはしっかり怒るいい先生でした。私が受験に失敗して浪人が決まった際には、電話で「今年は番狂わせが多かった」と気遣ってもらいました。一年後に合格の報告をした際には相変わらず淡々と「おめでとう、当然だよね」とねぎらってくれました。
担任の先生以外にも多くの先生にお世話になりましたが、野球部の顧問の中村穎司(えいし)先生のことは良く覚えています。一回り先輩の茂木健一郎さんがこちらでも書いていますが、穎司先生の現代文(評論)の授業は国語というより記号論のような授業で高校1年の私は面食らいました。その時習っていまでも標語的に覚えている言葉に「あるとあるべきと型」、「内包と外延」というのがあります。大学卒業後になりますが、野球部の仲間で司法試験に受かった友人が「あの穎司の授業はレベル高かった、司法試験でも役立った」といっていたので本当にいい授業だったのでしょう。文章を論理的に分析して評論するのは確かにスッキリしていて、それまでの国語の授業に比べて楽しかったです。穎司先生に影響されて小林秀雄の文章も色々と読むようになりました。毎年卒業前に野球部のメンバーは穎司先生のご自宅に呼ばれて御馳走になるそうで、先輩たちから先生の家は地元の名家らしくすごいという話を聞いていましたが、私は残念ながらクラスでスキーに行く日と重なり、先生の所に伺う機会はありませんでした。ネットで調べたところ先生の弟さんが
サロン中村古書画コレクション
というページを公開されていました。機会があったら一度伺ってみたいと思います。ただ、その前に骨董品や古書画について少しは勉強しておかないとダメそうですね。
以上、これまでのエントリーで小中高とお世話になった先生方について書いてみました。学生時代について思い出せるだけ何とか書いてみましたが、なんだかとても苦しい作業でした。もちろん楽しい思い出もあるのですが、あまり過去にこだわり過ぎるのは精神衛生上良くなかったです。これからはあまり振り返ることはせずに駆け抜けていこうと思います。
私にとって理想の教師像はヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演戯』
に出てくるヨーゼフ・クネヒトです。長年、ガラス玉演戯を極めることを目標としたアカデミアのような組織にいたのですが、後年そこを離れて一介の家庭教師として若者を教えていました。ある夏、その若者がヨーゼフ・クネヒトに湖を泳いで渡ろうと冒険を持ちかけ、クネヒトはその誘いを断ることなく湖を泳いでいると、その途中で亡くなった。そして若者の心に何か大きいものが残った、という話です。私は教師ではないので将来このようなことはおそらく無いでしょうが、万一学生や子供から冒険を持ちかけられたら、迷わずそれに乗っかれるだけの体力・気力・精神力を日々精進して付けておきたいと思います。
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