2018-09-02

お世話になった先生方1:小学校

9月になって家の子供もそうですが新学期が始まりました。最近は学校に行きたくない人も多いようですが、私は学校が好きだったので新学期になるのは楽しみでした。久しぶりに会う友達と色々と話をするのが楽しかった記憶がありますが、知らないことを教えてもらう授業も好きでした。子供のころは先生たちが親以外では唯一身近な大人なので、無意識のうちにも先生方から色々学ぼうとしていました。大人になって学校の先生の名前や校歌を覚えていないという人も多いと思いますが、私は両方ともよく覚えています。ただ、いつまでも覚えているかは心許ないので小中高でお世話になった先生について書き残しておきます。小学校には1981年から1987年まで神戸市立高羽小学校へ通いました。

小学1年生の担任は黒田美穂子先生でした。ベテランのおばあちゃん先生で1年1組の学年主任でした。幼稚園とは違って厳しい先生で子供ながらに怖かったです。仲の良かった井上君が提出物を忘れたので往復2時間かけて家まで取りに帰った事件がありました。井上君の家には一度遊びに行きましたが土山町の坂の上のさらに上のほうで大人でも登るのが大変な所でした。あまりにも遠かったので2学期からは隣の学校に転校してしまって残念でした。38年も前のことですが覚えています。井上大地君、その後元気ですか?数年前に小学校の同窓会が六甲道であり、卒業以来久しぶりに小学校の友人に会いに行きました。その時聞いた話では黒田先生はもう亡くなられたそうです。一年の間でしたがお世話になりました!

1年生の冬休みから2年生の2学期まで、川崎病でずっと神戸海星病院で入院していました。初めは個室でしたが病状が治まってからは大部屋で中学1年生と小学5年生のお兄ちゃんと一緒の部屋で楽しかったです。中学生のお兄ちゃんは井久保君という優しい人で私は「いくちゃんマン」と呼んで遊んでもらっていました。小児病棟の子供たちはみんな優しくてすぐ友達になりました。私は途中から元気になりましたが毎日のように採血されたのがほんとに嫌でした。学校に戻ってからは少し落ちこぼれ気味でしたがスムーズに学校生活に復帰できました。上述の同窓会に出たとき2年生の時同じクラスだった女の子が教えてくれたことですが、私が戻る前に担任の岡千秋先生が「ずっと入院していた阿部君が初めて登校して来ますが、皆さん仲良くしてあげてください」というようなことを伝えてくれたそうです。

3年生の時は出来幹生先生でした。若くとても熱血漢の先生で、いつも本気でした。特に体育の時間は迫力があって、砂場の前に設置した棒高跳びの棒(竹竿)を飛ぶのに躊躇う生徒が続発したときは、「こんなん、こわくないんじゃ~」と言いながら、短距離走のゴールテープを切るように突っ走っていったのにはビビりました。子供ながらに「え~、それ飛ばなあかんのんとちゃうん?!」と思いましたが先生の剣幕に皆何も言えませんでした。当時中日で大活躍していた田尾選手と同志社大学で一緒だったそうで、野球についても熱かった。体操の時間などは目一杯体を伸ばして体を柔らかくするんだぞと教えてもらいました。巨人の中畑みたいに体が硬いとケガするぞ、と男の子には分かるけど女の子にはおそらく通じない教え方が新鮮でした。活発な男子が多かったので、それぐらいの教え方でちょうどよかったのかもしれません。今では問題になるかもしれませんが、授業中うるさい男子には本気でチョークを投げつけていました。初めての男の先生だったこともありとても印象に残っています。先生も若かったからでしょうが、あんな熱意のある先生にはなかなか巡り会えません。もちろんいつもは優しい先生ですが、子供ながらに「本気でやらなシバかれる」という気持ちになりました。早いうちにこのような体験をできたのはとてもよかったです。

4年生の時の担任は出来先生よりもインパクトがありクラスもとても楽しかったので一番印象に残っています。新任の若い女の先生で、名前は井伊(もしかしたら伊井かも)僚子先生でした。一番初めの自己紹介の時に先生は怖い話が大好きですとおっしゃり、毎週一回は先生の怪談話を聞かされました。赤い半纏の話や皿屋敷の話など先生がとても楽しそうに怖い話をするので話自体は怖くていやなのだけどいつも引き込まれて聞き入っていました。名人芸のような語り口で最後に必ず盛り上がりました。それ以外にもプレゼント交換会を開催してくれたり、珍しく雪が降り積もったら授業を止めて公園で雪合戦したり、クラスの中で問題があると意見を出し合って討論会を開いたり、ホントに自由自在ににクラスを受け持ってくれました。自分も悪ふざけが過ぎて廊下に立たされたり、クラスが鎮まらずに先生が怒って職員室に帰ってしまったりもありましたが、あんなに楽しいクラスはありませんでした。先生も初めての小学校でやりたいようにやろうと思っていたのではないでしょうか。先生の愛嬌、優しさ、遊び心、何より人生を全力で楽しむ気持ち、全て伝わりましたよ!残念ながら先生は一年間私たちを受け持ってくれただけで風のように小学校を去ってしまわれましたが、あの時のことは今でも私の大切な記憶です。名前の通り本当にいい先生でした、ありがとうございました!

5年生の時は田辺節子先生でした。ベテランのおばちゃん先生で任せて安心、安定感があり、危機管理能力もしっかりされていました。私と友達が下校中に枇杷の木の実を取ろうとして傘を投げ上げて遊んでいたら友達の額に傘が落ちてきてケガをしたことがありました。翌日、学校で友達があれから病院に行って大変だった、と教室で騒ぎになっていたところ、ちょうど一時間目が道徳の時間だったので、その経緯を話したところ放課後に先生の引率のもと、友達と一緒に枇杷の木の持ち主のところに謝りに行きました。私は内心、結局ビワ取ってないし、そんな必要ないんちゃうん!?と思っていましたが、実際に持ち主の方に謝ることができたのは貴重な体験でした。そんなん気にせんでええで、と言ってもらえてホッとしました。いまさらながら放課後にわざわざ時間を取ってくれた田辺先生に感謝します。

6年生の時は松尾先生でした。長年高学年を受け持っていたベテランの男性教諭でした。高学年になると男子は反抗的になるので多少の体罰は仕方ないと思います。そうでないと先生もなめられるので教育どころではなくなるのではないでしょうか。私は愛情があれば少しぐらいの体罰はあってもいいという考えですが、それはこの頃の記憶があるからです。お互いの信頼関係がなければ教育は成り立ちません。10歳以上になれば子供は大人が考える以上に何でもよく分かっています。体罰厳禁だからと人の足元を見て先生に口答えする子供に先生は何を教えたらいいのでしょうか!いまの先生方は大変だと思います。少なくともあの頃の松尾先生ならそんなガキに愛のある蹴りを入れてくれていたでしょう。今ではそんなことすらも犯罪になってしまうのでしょうか。さみしいですね。

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