前回の続きです。中学校は1987年から1990年まで目黒区立第十中学校に通いました。神戸から引越してきたので標準語がすべて自分にケンカ売っているように聞こえてしまい入学早々教室で盛大にケンカして負けてしまいました。その日の下校時にケンカ相手が「君、名前なんていうの?」と声をかけて来てたので、私は「なんやこいつ」と思いながらも負けたからには逆らえないので「阿部だけど」と(できるだけ関西弁にならないように)ぎこちなく答えたところ、「オレ、佐藤、よろしくな!」とまるでさっき何もなかったかのように爽やかに言って去って行きました。私は、ポカ~ンとして「なんやあいつ、話し方なんかハガたらしいけど、まあ許しといたるわ!」と呟きながら何故か笑ってしまいました。佐藤君は学年で一番サッカーが上手く、何度か一緒にサッカーして遊ぶうちにすぐ仲良くなりました。これが私の東京生活のスタートです。
1年生の時の担任は大日方(おびなた)先生という新任の女の先生でした。日体大でバスケットをやってたらしく、バリバリの体育会系で男勝りな印象の先生でした。しゃべり方も、ちゃきちゃきの江戸っ子らしくべらんめえ調でハッキリ物を言うので私には新鮮でした。特に理不尽に怒られることもなく、生徒の話も素直に聞いてくれるいい先生でした。中学生になると教科別に先生が変わりますが、特に印象に残っているのは社会(地理)を教えてくれた有田先生です。180cmぐらいある長身ですらっとした女の先生で校舎内でもサングラスをかけていてモデルのようでした。八王子にあるバレーボールの名門校から早稲田に進まれたそうでおそらくバリバリの体育会出身だったはずですが、そのような感じは全くなく、話し方も穏やかで授業も色々なエピソードを交えてくれて興味深かったです。学生のころにバックパックをしてバンコクでチャオプラヤ川沿いの寺院に泊まった朝の風景の話をしてくれた後に、「皆さんも大きくなったら是非世界中旅行してくださいね!」とおっしゃられたことが頭から離れず、大学1年の夏に初めて1人でバンコクに行き、その後も長期休みはバックパック旅行を楽しんだすえ、それでは飽き足らず大学院は海外に行くことに決めたのはあの有田先生の言葉がキッカケだったかもしれません。授業で東欧地域を取り上げた際にはマストロヤンニとソフィア・ローレン主演の映画『ひまわり』を紹介してくれました。ウクライナの肥沃な農地に広がる画面いっぱいのひまわり、戦争で離ればなれになった男女、そして切なく心にしみる音楽、素晴らしい映画なのでぜひ見てくださいね!との言葉も忘れられません。もちろん観ましたよ!ロサンジェルスという先生の板書に真面目な生徒が教科書にはロサンゼルスと書いてますがどちらが正しいのでしょうかと指摘したときに、どっちでもいい、元々 Los Angels が正しくてこれはスペイン語で天使という意味です、スペイン語ではロスアンヘルスと言うけど英語読みするとロサンジェルスです、と教えてくれとても勉強になりました。
2年生の時の担任は永田先生でした。永田先生は立派なひげを蓄えた強面の国語の先生でしたが、ひげを生やしていない頃の免許証の写真を見せてくれるような茶目っ気のある人でした。色の入った眼鏡をかけていたので無駄に人相が悪く見えましたが、板書が奇麗で丁寧な授業をしてくれました。私達の時もあまり良くありませんでしたが、数年前まで学校は相当荒れていたようで卒業式に警察が出動されるほどだったそうです。その為先生たちは相当ご苦労されたと思います。テレビやメディアなどで昔はやんちゃだったとか何とか言って武勇伝のように言う人がいますが、その時の先生方のことを思うと泣けてきます。昔悪かった人はしっかり反省してまずはその時お世話になった人に謝るのがケジメでしょう。若い人に影響力のある人が昔はやんちゃだったとあえてメディアで言いふらす必要はないと思います。特に中学生ぐらいの若者はそれがカッコいいと勘違いしがちですし、誰もが皆更生できるとは限らないのですから。7月に入って一学期も終わろうとしていた頃、永田先生の国語の授業中に学年主任で理科の相田先生が只事ではない様子で永田先生を呼びに来ました、永田先生はしばらくして教室に戻りいつも通り授業を再開しましたが、私は胸騒ぎを覚えました。帰宅後、夕方のニュースで見慣れた中学校の正門が映し出され、親しかったクラスメイトが殺人事件を起こしたことを知りました。当時、詳しいことは知りたくても知るすべがありませんでしたが、大学生のころまだ10年も経っていないころに本屋で
という翻訳本が並んでいて、立ち読みするとその中に(そこまで書いていいのかと疑問に思うぐらい)詳しいことが書いてあり、恐怖と悲しさで胸がいっぱいになり途中で本を置いて店を飛び出しました。
事件の後、数日間は非日常的な生活を送りました。翌朝の全校集会で校長先生から、教室では担任の永田先生から色々と話をしてもらいましたが全く頭に入ってきませんでした。なぜか週刊誌の記者から家に電話がかかってきて「どうですか?」と聞かれたのには驚きました。(どうもこうもなかったので何も答えませんでしたが。)ただ、先生方が必死になって通常通りの生活に戻そうとしているのは感じ取れました。各教科の先生方が授業前に「2年F組の皆さん、頑張りましょう」とか「悲しみをのりこえて、みんなで頑張りましょう」などと気を使ってくれました。私は始めのうちは先生方が何を頑張れと言っているのか良く分かりませんでしたが、次第に結局いつも通りに勉強と部活動を頑張れと言っているのだと気付きました。私は心の中で「ああ、もうこれはダメだな」と呟き、どんなことが起ころうと勉強と部活動に励むしかない中学生の現実が変わることは無いのだと確信したことを覚えています。これは、私にとって勉強・学問への気付きでしたが、あの時本当は先生方にどうしてあの事件が起きたのか一言でも何か言ってもらいたかったです。もちろん先生にとってもあんな悲しいことが起きるとは想像もしていなかったでしょうし、先生に問題があるわけではないのですが、当時の私としては中学校という教育システムにも一因があったはずだから、そのシステムの不備というか閉塞感に先生も気付いてほしいという気持ちがありました。生徒にとっては先生が教育システムの象徴だったので先生が変われば中学校も変わるのではと誤解していましたが、今考えるとこれはもっと大きな組織、文科省や国家の問題でした。学校の先生方がどうこうできる問題ではありません。実際、先生方は事件のことには一切言及しないようになり授業は淡々と進められました。
こういった生徒(少なくとも私)の思いに、一番敏感だったのがおそらく社会(歴史)の根岸先生でした。のほほんとした初老の先生で、2学期以降は授業が始まると教科書を閉じて黒板を背にして教壇の前にどしっと座り、授業の大半を雑談に費やして、「巨人の“クロマテー”はダメだ、あんなお尻だしてねえ、あれじゃ打てない」とか「もし君達の誰かがノーベル賞取ったら是非『根岸先生のおかげです』と言うように」とかホント漫談ばかりの授業でした。生徒の中にはあれじゃ全然勉強にならないという人もいましたが、私は根岸先生の見かけによらない繊細さに救われた気分でした。もちろん大人の視点から見れば単なる職務怠慢でしょうが、私には先生の勇気ある精一杯の行動のように思えました。ありがとうございました!
この頃、私は矢野健太郎先生の『数学ふしぎ・ふしぎ』、『すばらしい数学者たち』、『幾何の有名な定理』といった数学の本を夢中になって読みました。また、大学受験用の参考書をもとに歴史のノートを作ったり、教育テレビでロシア語の勉強を始めたりしました。以前のエントリーで触れたように学校の授業中に『水とはなにか』というブルーバックスの本を読んでいて先生に没収されたのもこの頃です。
1年生の時の担任は大日方(おびなた)先生という新任の女の先生でした。日体大でバスケットをやってたらしく、バリバリの体育会系で男勝りな印象の先生でした。しゃべり方も、ちゃきちゃきの江戸っ子らしくべらんめえ調でハッキリ物を言うので私には新鮮でした。特に理不尽に怒られることもなく、生徒の話も素直に聞いてくれるいい先生でした。中学生になると教科別に先生が変わりますが、特に印象に残っているのは社会(地理)を教えてくれた有田先生です。180cmぐらいある長身ですらっとした女の先生で校舎内でもサングラスをかけていてモデルのようでした。八王子にあるバレーボールの名門校から早稲田に進まれたそうでおそらくバリバリの体育会出身だったはずですが、そのような感じは全くなく、話し方も穏やかで授業も色々なエピソードを交えてくれて興味深かったです。学生のころにバックパックをしてバンコクでチャオプラヤ川沿いの寺院に泊まった朝の風景の話をしてくれた後に、「皆さんも大きくなったら是非世界中旅行してくださいね!」とおっしゃられたことが頭から離れず、大学1年の夏に初めて1人でバンコクに行き、その後も長期休みはバックパック旅行を楽しんだすえ、それでは飽き足らず大学院は海外に行くことに決めたのはあの有田先生の言葉がキッカケだったかもしれません。授業で東欧地域を取り上げた際にはマストロヤンニとソフィア・ローレン主演の映画『ひまわり』を紹介してくれました。ウクライナの肥沃な農地に広がる画面いっぱいのひまわり、戦争で離ればなれになった男女、そして切なく心にしみる音楽、素晴らしい映画なのでぜひ見てくださいね!との言葉も忘れられません。もちろん観ましたよ!ロサンジェルスという先生の板書に真面目な生徒が教科書にはロサンゼルスと書いてますがどちらが正しいのでしょうかと指摘したときに、どっちでもいい、元々 Los Angels が正しくてこれはスペイン語で天使という意味です、スペイン語ではロスアンヘルスと言うけど英語読みするとロサンジェルスです、と教えてくれとても勉強になりました。
2年生の時の担任は永田先生でした。永田先生は立派なひげを蓄えた強面の国語の先生でしたが、ひげを生やしていない頃の免許証の写真を見せてくれるような茶目っ気のある人でした。色の入った眼鏡をかけていたので無駄に人相が悪く見えましたが、板書が奇麗で丁寧な授業をしてくれました。私達の時もあまり良くありませんでしたが、数年前まで学校は相当荒れていたようで卒業式に警察が出動されるほどだったそうです。その為先生たちは相当ご苦労されたと思います。テレビやメディアなどで昔はやんちゃだったとか何とか言って武勇伝のように言う人がいますが、その時の先生方のことを思うと泣けてきます。昔悪かった人はしっかり反省してまずはその時お世話になった人に謝るのがケジメでしょう。若い人に影響力のある人が昔はやんちゃだったとあえてメディアで言いふらす必要はないと思います。特に中学生ぐらいの若者はそれがカッコいいと勘違いしがちですし、誰もが皆更生できるとは限らないのですから。7月に入って一学期も終わろうとしていた頃、永田先生の国語の授業中に学年主任で理科の相田先生が只事ではない様子で永田先生を呼びに来ました、永田先生はしばらくして教室に戻りいつも通り授業を再開しましたが、私は胸騒ぎを覚えました。帰宅後、夕方のニュースで見慣れた中学校の正門が映し出され、親しかったクラスメイトが殺人事件を起こしたことを知りました。当時、詳しいことは知りたくても知るすべがありませんでしたが、大学生のころまだ10年も経っていないころに本屋で
という翻訳本が並んでいて、立ち読みするとその中に(そこまで書いていいのかと疑問に思うぐらい)詳しいことが書いてあり、恐怖と悲しさで胸がいっぱいになり途中で本を置いて店を飛び出しました。
事件の後、数日間は非日常的な生活を送りました。翌朝の全校集会で校長先生から、教室では担任の永田先生から色々と話をしてもらいましたが全く頭に入ってきませんでした。なぜか週刊誌の記者から家に電話がかかってきて「どうですか?」と聞かれたのには驚きました。(どうもこうもなかったので何も答えませんでしたが。)ただ、先生方が必死になって通常通りの生活に戻そうとしているのは感じ取れました。各教科の先生方が授業前に「2年F組の皆さん、頑張りましょう」とか「悲しみをのりこえて、みんなで頑張りましょう」などと気を使ってくれました。私は始めのうちは先生方が何を頑張れと言っているのか良く分かりませんでしたが、次第に結局いつも通りに勉強と部活動を頑張れと言っているのだと気付きました。私は心の中で「ああ、もうこれはダメだな」と呟き、どんなことが起ころうと勉強と部活動に励むしかない中学生の現実が変わることは無いのだと確信したことを覚えています。これは、私にとって勉強・学問への気付きでしたが、あの時本当は先生方にどうしてあの事件が起きたのか一言でも何か言ってもらいたかったです。もちろん先生にとってもあんな悲しいことが起きるとは想像もしていなかったでしょうし、先生に問題があるわけではないのですが、当時の私としては中学校という教育システムにも一因があったはずだから、そのシステムの不備というか閉塞感に先生も気付いてほしいという気持ちがありました。生徒にとっては先生が教育システムの象徴だったので先生が変われば中学校も変わるのではと誤解していましたが、今考えるとこれはもっと大きな組織、文科省や国家の問題でした。学校の先生方がどうこうできる問題ではありません。実際、先生方は事件のことには一切言及しないようになり授業は淡々と進められました。
こういった生徒(少なくとも私)の思いに、一番敏感だったのがおそらく社会(歴史)の根岸先生でした。のほほんとした初老の先生で、2学期以降は授業が始まると教科書を閉じて黒板を背にして教壇の前にどしっと座り、授業の大半を雑談に費やして、「巨人の“クロマテー”はダメだ、あんなお尻だしてねえ、あれじゃ打てない」とか「もし君達の誰かがノーベル賞取ったら是非『根岸先生のおかげです』と言うように」とかホント漫談ばかりの授業でした。生徒の中にはあれじゃ全然勉強にならないという人もいましたが、私は根岸先生の見かけによらない繊細さに救われた気分でした。もちろん大人の視点から見れば単なる職務怠慢でしょうが、私には先生の勇気ある精一杯の行動のように思えました。ありがとうございました!
この頃、私は矢野健太郎先生の『数学ふしぎ・ふしぎ』、『すばらしい数学者たち』、『幾何の有名な定理』といった数学の本を夢中になって読みました。また、大学受験用の参考書をもとに歴史のノートを作ったり、教育テレビでロシア語の勉強を始めたりしました。以前のエントリーで触れたように学校の授業中に『水とはなにか』というブルーバックスの本を読んでいて先生に没収されたのもこの頃です。
3年生の時の担任は曽根原先生でした。信州松本出身の音楽の先生で、エレガントな装いで美人だったので先生というより音楽家という印象でした。悪ふざけの過ぎる男子生徒を上手くあしらわないといけない公立中学校の先生は大変だったと思います。途中、夏休みだったかに結婚されて名前が生島先生に変わりました。進路を決める三者面談の際に私が学芸大附属高校と開成高校を受けたいと言ったら「宝くじみたいなものだから」と受ける前から慰められてしまいましたが、必死で受験勉強したおかげで、無事志望校に合格できました。合格発表の翌日だったか、夕方突然、学年主任の相田先生から自宅に電話があり、相田先生はぐでんぐでんの酩酊口調で「阿部がなあ、そんな良い学校行ってくれて先生嬉しいよ。阿部な、本当に良かったなあ」とおっしゃってくれました。居酒屋から掛けているのか周りの声が騒がしく私は少し驚きましたが、背筋を伸ばし静かに「ありがとうございます」と言い電話を切ろうとしたところ、相田先生は続けて「阿部な、高校行っても頑張れよ、な」と念を押すように諭されました。私は相田先生が「頑張って勉強と部活動に励め」と言っているのではなく「頑張って生きろ」と言っているように感じ、素直に「はい、頑張ります」とお辞儀をしながら答えました。2年生の時、学年主任の相田先生と担任の永田先生はあの事件のことで色々と大変だったことを私は間接的に聞いていたので、相田先生に喜んでもらえて私は素直に嬉しく思いました。卒業式の日に相田先生は私に「阿部な、高校行ったら先生に物理教えてくれよな」と声をかけてくれたので、「先生に教えることなんてないですよ」と答えると先生は「いや、本当にそうなんだよ、もう先生じゃ最先端の物理は分からないんだよ」とおっしゃっられたことが心に残っています。あの言葉がなければ大学に行って物理学科に進むことはなかったでしょうし、ましてや素粒子理論でPhDを取得することはなかったでしょう。相田先生、ありがとうございました!最後になりますが、3年生の時の担任だった生島先生が通知表に書いてくれた「多くの人から愛される人になって下さい」というメッセージも忘れられません。先生には私に天邪鬼な所があるのを見抜かれていましたね。いまだにこの言葉を守れていません、今後の課題としてこれからも頑張ります!
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