2019-01-17

最近読んだ本:世界の中の日本史

最近子供の受験勉強に影響されたのか久しぶりに日本史の本を読みました。茂木誠著の『世界史とつなげて学べ超日本史』です。


話題になっているそうですが、とても良かったです!著者は予備校の世界史の先生だそうで、グローバルで科学的な視点から日本史の解説をされているので楽しく読めました。世界史の専門家ならではの知識(例えば各時代における覇権国内外の状況理解)を織り交ぜながら、これまでの教科書では断片的にしか知りえなかった日本の歴史を一貫した流れの中で理解できるように配慮してくれた力作です。教養人である皆様には是非お勧めしたいです。導入部分で最近のDNA研究が紹介され、日本人には中国人や韓国人にはほとんど見られないD2(最新の分類ではD1b)というY染色体を持つ人の割合が高い(およそ4割)ことが示されています。D2はチベット人やインド洋のアンダマン諸島の人たちにも共通するY染色体で縄文系の人たちのDNAだと考えられています。日本では縄文系の人たちと中国・朝鮮に多い弥生系の人たちとの混血が進んだようです。日本語のルーツである大和言葉と漢語(中国語)が明らかに違うことから日本には中華文明が流入する以前から縄文系の文化が発展していたことが想像できます。もうお亡くなりになりましたが言語学者の大野晋さんが大和言葉とインドのタミル語との共通点を指摘されていましたがやはりそうだったのかとの思いを強くしました。

私が参加した初めての国際学会がインドのチェンナイでありせっかくなのでそのついでに南インドを2週間ぐらい旅したことがあります。夜行列車でチェンナイからタミル・ナドゥ州を南下してあのラマヌジャンの生地クンバコナムまで行ったのですが、早朝のクンバコナム付近の風景は忘れられません。朝靄の中一面に1月にもかかわらずやや長めの稲が青々と育っている田んぼが広がっている光景は何故かとても懐かしいものでした。その後、チョーラ朝時代の寺院などに寄りながら半島を横断しケララ州のコチまで行きそこからは列車でムンバイまで一気に北上しました。コチでムンバイまでの列車の切符を買うのが大変でした。というのも、当時(2003年1月)インドでは何ヵ月も前から長距離列車のチケットを予約するそうなのでいきなり明日の切符くれと言ってもダメだったからです。ムンバイからの飛行機の日程が迫っていたので何とかお願いしたところ tatkal(タッカル)という特別切符があるからそれを申請すればということで何とか1日待つだけで済み、無事帰ることができました。あの時、私に向かってタッカル、タッカルと教えてくれた駅員の方の声が今でも耳に残っています。いま調べてみると Tatkal scheme というのが現在でもあるそうです。インドで長距離移動するのはバスでも可能です。いまはどうか知りませんが当時はかなり荒れた道を大音量かつハイテンポ、ハイキーで裏声掛かりまくりの歌謡曲を何時間も聞きながら座席に揺られ続けるという苦行に耐えました。始めは驚きましたが途中からは中毒のようになりあの裏声がないと物足りないような気分になったのは不思議です。ただ、さすがにうるさ過ぎて寝ることもできなかったのでもう乗りたくありません!最近、夏川りみさんの「あなたの風」という曲を聴いた際にあの南インドで聞いた裏声と共通するものを感じました。もちろん夏川さんのほうは裏声というより抑制された穏やかなバージョンの歌声なのですが。(マイルド過ぎる曲調のため、もし万一インドの長距離バスでかけるとするとバスの運ちゃんの調子がくるってしまうかもしれません。)

さて、私は理系なので高校では世界史の授業は受けませんでした。社会は地理を選択しました。そのため世界史・日本史の知識は基本的に中学校の歴史で習っただけです。歴史は中学2年生で習いますが、ちょうどそのころ真面目に勉強しようと決めたので図書館に通って大学受験用の参考書を眺めながら自分で歴史のノートを作ったことがあります。今回は久しぶりに目にするの用語が出てきたので、そのノートを引っ張り出してきて当時のことを思い出してながら読み進めました。例えば、倭の五王について「讃、珍、済、興、武」と覚えたなぁと昔のページを開けてみると


とありました。今となっては専門家の間でもまだ決着がついていないような内容を参考書に載せるのはどうなんだろうと思います。(ところでなんで倭を「わ」と呼ぶのでしょうか?阿波古事記研究会の三村さんによるとこれは「い」と呼ぶのが自然で、紀伊水道から分かるように「い」とは徳島を表していると推論されています。興味深い話です。)文書に残された歴史はそれこそ古今東西無限にあります。そのようなものを網羅するなんてことはとてもじゃないけど出来ません。それこそAIがやるべき事柄じゃないでしょうか。歴史的事実の断片的な積み上げではなく、もっと総合的な視点から歴史の流れを理解し、それを未来に応用することが本来歴史を学ぶ意義だと思います。2022年以降から始まる「歴史総合」という科目はこういった問題意識から導入されたのでしょう。ちょうど長女が高校に上がるときなので期待したいです。その際、『超日本史』を副読本として使ってもらえると嬉しいですね。『超日本史』では倭の五王の詳細には触れず、これらの王が古墳時代に大阪平野の干拓という公共事業を行った「河内王朝」の王たちを総称しているとだけ端的に指摘し、それらの公共事業を可能にしたのはその頃に土木技術集団であった渡来人の秦氏が政治難民として朝鮮から大和へ流入したからだと述べています。干拓の際に発生する大量の土砂(上町台地の北端を削って運河を通したそうです)を使えばあの仁徳天皇陵のような大規模古墳を作ることも可能だったはずという合理的な説明に納得しました。それ以外にも断片的に知っている史実がつながっていく内容は読んでいて勉強になりました。

例えば、教科書では聖徳太子が大きく取り上げられていますが、実は蘇我馬子と二人三脚で諸制度(冠位十二階、十七条憲法、遣隋使)が整えられたという記述があり、確かにその後の経緯を考えれば当然だなと合点しました。つまり、大化の改新で出てきた中臣鎌足の子孫の藤原不比等が古事記、日本書紀の編纂を指揮したので、その藤原氏の敵であった蘇我氏についてはできるだけ歴史に残しておきたくないと考えるのは当然でしょう。中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が無謀にも挑んだ白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫した後、混乱の中天智天皇が亡くなり、その継承問題から壬申の乱が起きたと教科書では習います。しかし、壬申の乱の本質は単なる継承問題ではなかったと著者は解説しています。白村江の戦い以後、唐と新羅は百済・高句麗の領有をめぐり対立し始めたので敗戦後の危機的な状況にあった大和政権は最重要の外交政策として唐に付くか新羅に付くかを決める必要がありました。最終的には、新羅寄りの大海人皇子(天武天皇)が唐寄りの大友皇子に勝利し、以後、天武、持統、文武天皇のの三代の間、遣唐使は廃止されました。教科書で習ったときはなんで遣唐使が途中で廃止されたのか不思議でならなかったのですが、やっとスッキリしました。飛鳥時代から奈良時代にかけてのこのあたりの流れを著者は次のようにまとめています。
聖徳太子・蘇我馬子政権は当時のグローバル・スタンダード(中華文明)を受け入れつつも、政治的独立を維持するという冷徹な計算に基づいて遣隋使を派遣し、対等外交を実現しました。その半世紀後には、中大兄皇子・中臣鎌足の百済への過度の肩入れによって亡国の危機を迎えました。このあたり、日露戦争で列強の一員として認められてから三十年後に、中国との泥沼の戦争を開始し、対米戦争という無謀な決断をした昭和の日本とも重なります。 
唐と新羅の関係悪化という朝鮮半島情勢の激変と、壬申の乱による天武天皇政権の発足によって、ヤマト国家は本来のリアリズム外交に戻り、「日本国」を国際的に承認させたのです。「歴史を学ぶ」とは、こういうことでしょう。
『超日本史』にはこのようなハッとするような記述がそこかしこにちりばめられています。

私にとっては将門ハーフマラソンでなじみのある平将門の乱(939年、この年号は中学の時から何故か覚えています)についても律令制度の形骸化という東アジアに共通した流れの中で自然に理解できることを明快に示しています。この関東に居た平氏がさらに伊勢に渡り海の勢力(海賊衆)を収め、その中から海の勢力を統べる平清盛が現れてきます。一方、関東の開拓農民を基盤とする陸の勢力を支配したのが鎌倉幕府です。著者が喝破しているように、平安後期から鎌倉時代にかけての武士の台頭はシーパワーの平氏政権とランドパワーの鎌倉幕府という観点から考えるとすんなりいきます。『超日本史』では江戸時代の鎖国の話に至るまでの様々なトピックが取り上げられています。すべて紹介しているときりがないのでこの辺にしておきましょう。興味ある方は是非一度手に取ってみてはいかがでしょうか。

0 件のコメント: