あれから9年ですか。長かったような短かったような。9年前はまだ下の子は生まれておらず、上の子は4歳で保育園に通っていました。9年前の3/11は金曜日で私は江戸川橋のオフィスに居ました。15時前に大きな揺れが来て、タダ事ではない感じだったので早めに帰ることにしました。16時には会社を出たと思います。電車も止まっていたので歩いて帰るしかありません。高田馬場から落合、早稲田通り沿いに中野方面へ。環7を渡るころには暗くなってきました。道路は西へ向かう歩行者でごった返して、車はなかなか進まなかったと記憶しています。サイズが大きめの革靴を履いていたので踵付近に靴擦れを起こし、だんだん歩き疲れてきました。運動靴で来ればよかったなあなんて後悔しても仕方ありません。自転車屋さんで自転車を購入する人を横目にただ歩くだけです。いまルートを調べたら阿佐ヶ谷付近で日大二高通りに入ればよかったのですが、そのまま早稲田通り沿いに歩いてしまって遠回りしてしまったようです。清水三丁目の交差点で環8を渡って、都立農芸高校を過ぎ、青梅街道を渡って、善福寺公園経由で吉祥寺に出ました。吉祥寺駅前のバスロータリーは信じられないほど混雑していました。三鷹に着いたのは20時過ぎていました。家族と連絡がつかないのでとりあえず保育園に寄りましたが、子供は妻に引き取られていたようです。帰宅後、家族の無事を確認してとりあえず一安心でしたが、その後、津波・原発事故のニュースにはただただ愕然としました。
阪神淡路の大震災では6000人を超える犠牲者が出たのですが、東日本大震災ではその3倍以上の方が犠牲になりました。地震だけなら火災・倒壊の対応で済んだのですが、大津波そして原発のメルトダウンという最悪の事態になりました。神戸の時は身軽な学生だったので試験後の春休みに被災地に行って避難所に3週間滞在しましたが、2011年は仕事も子供もある身なので自宅でおとなしくしていました。原発事故の対応に一喜一憂しながら、これまでの価値基準が一気に転換したような思いになりました。被災地に実際に行ったのはこちらでも紹介したように5年後の2016年の夏でした。三陸海岸の豊かな自然と巨大な防潮堤の不自然さが今でも印象に残っています。宮古の寿司屋(蛇の目本店)にはまた行きたいなあ。そういえば門田隆将さんの『死の淵を見た男』
を原作にした Fukusima 50 という映画が最近公開されたそうなので今度観に行こうと思います。先日、学校が休校中の長女に興味あるか聞いてみたら、なんか怖そうだし映画館とかは行っちゃダメなのと断られました。一人で行くか。
原発事故と言えば牧野先生の『原発事故と科学的方法』
は必読の書です。今回の新型ウイルスの対応でもそうですが、政府の言っていることが二転三転して信じられないときは愚痴を垂れて批判していても仕方ありません。こういう時こそ自分で考えて必要であれば手を動かす(計算する)ことが大事です。牧野先生は3.11後も原発政策などについてtwitterで積極的に発信されておりとても参考になります。
これまでいろいろと議論されてきましたが、個人的には現時点での原発再稼働に反対です。原子力発電は核力を熱エネルギーとして取り出すという魅力的な技術ですが、今回のような大惨事になるリスクを考えるとやはり人類を滅ぼすかもしれない技術ではないでしょうか。核廃棄物の処理を後世にゆだねるというのも無責任ですし。机上では何事も上手くいくように見えるかもしれませんが、実際に運用するとなると多くの人員が必要になります。原発のような大型施設を管理運営するとなるとトップダウンの指揮系統となり末端のスタッフはとにかく言われた通りにやれと兵隊扱いされるに決まってます。電力会社は絶対にそのようなことは無いと言うでしょうが、構造上そのようなシステムになっているので私には現場の悲哀が目に浮かびます。日本では国策による大型施設の管理運営は上手くいかないのです。戦時中の戦艦武蔵の話
で懲りたのではないでしょうか。このような原発運営に関する構造上の問題点以外にも、道義的な観点からも原発の再稼働には疑問があります。皆さん周知の通りでしょうが、あれだけ原発は安全だと言っておきながらメルトダウンという大惨事を引き起こし、数えきれない人々の人生を台無しにしてしまったことへのおとしまえがついていないということです。責任ある大人ならもう一回原発やらせてくれとは言えないはずですが、東電だと許されるのでしょうか?電力会社が真摯な謝罪を行ったからOKという訳にはいきません。その謝罪を被害者が受け止めて、そこまで言うならもう一回やってもいいよという言葉なしにいつの間にか原発の再稼働が進められているということに多くの人が納得していないはずです。被害者を含めた国民の総意として原発再稼働が認められるまで気長に待つというのも知恵だと思いますが、どうなのでしょうか?
阪神淡路の大震災では6000人を超える犠牲者が出たのですが、東日本大震災ではその3倍以上の方が犠牲になりました。地震だけなら火災・倒壊の対応で済んだのですが、大津波そして原発のメルトダウンという最悪の事態になりました。神戸の時は身軽な学生だったので試験後の春休みに被災地に行って避難所に3週間滞在しましたが、2011年は仕事も子供もある身なので自宅でおとなしくしていました。原発事故の対応に一喜一憂しながら、これまでの価値基準が一気に転換したような思いになりました。被災地に実際に行ったのはこちらでも紹介したように5年後の2016年の夏でした。三陸海岸の豊かな自然と巨大な防潮堤の不自然さが今でも印象に残っています。宮古の寿司屋(蛇の目本店)にはまた行きたいなあ。そういえば門田隆将さんの『死の淵を見た男』
を原作にした Fukusima 50 という映画が最近公開されたそうなので今度観に行こうと思います。先日、学校が休校中の長女に興味あるか聞いてみたら、なんか怖そうだし映画館とかは行っちゃダメなのと断られました。一人で行くか。
原発事故と言えば牧野先生の『原発事故と科学的方法』
は必読の書です。今回の新型ウイルスの対応でもそうですが、政府の言っていることが二転三転して信じられないときは愚痴を垂れて批判していても仕方ありません。こういう時こそ自分で考えて必要であれば手を動かす(計算する)ことが大事です。牧野先生は3.11後も原発政策などについてtwitterで積極的に発信されておりとても参考になります。
これまでいろいろと議論されてきましたが、個人的には現時点での原発再稼働に反対です。原子力発電は核力を熱エネルギーとして取り出すという魅力的な技術ですが、今回のような大惨事になるリスクを考えるとやはり人類を滅ぼすかもしれない技術ではないでしょうか。核廃棄物の処理を後世にゆだねるというのも無責任ですし。机上では何事も上手くいくように見えるかもしれませんが、実際に運用するとなると多くの人員が必要になります。原発のような大型施設を管理運営するとなるとトップダウンの指揮系統となり末端のスタッフはとにかく言われた通りにやれと兵隊扱いされるに決まってます。電力会社は絶対にそのようなことは無いと言うでしょうが、構造上そのようなシステムになっているので私には現場の悲哀が目に浮かびます。日本では国策による大型施設の管理運営は上手くいかないのです。戦時中の戦艦武蔵の話
で懲りたのではないでしょうか。このような原発運営に関する構造上の問題点以外にも、道義的な観点からも原発の再稼働には疑問があります。皆さん周知の通りでしょうが、あれだけ原発は安全だと言っておきながらメルトダウンという大惨事を引き起こし、数えきれない人々の人生を台無しにしてしまったことへのおとしまえがついていないということです。責任ある大人ならもう一回原発やらせてくれとは言えないはずですが、東電だと許されるのでしょうか?電力会社が真摯な謝罪を行ったからOKという訳にはいきません。その謝罪を被害者が受け止めて、そこまで言うならもう一回やってもいいよという言葉なしにいつの間にか原発の再稼働が進められているということに多くの人が納得していないはずです。被害者を含めた国民の総意として原発再稼働が認められるまで気長に待つというのも知恵だと思いますが、どうなのでしょうか?
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