2023-02-02

父の転院2

 先日の転院の際に新たに担当する看護師の方から父の人となりを簡単に教えてほしいとの質問がありました。今後の看護の参考にしたいとのことで当然の質問であり、聞かれてありがたい反面、家族として一言で言い表せない気持ちで言葉に窮していると、看護師さんもすぐに悟られたようで、入院の経緯について触れられました。移転元の病院からの申し送り事項に記載されていたようです。すると母もそれならばとよどみなく救急搬送されるまでの様子を話し始めました。看護師さんはメモすることもなく黙って聞いておられました。話が一段落してから父の人柄について簡単にお伝えしました。
 
 人徳があって心の広い人。温厚でだれからも信頼される所があり自然とリーダーになる感じでした。高校時代は生徒会長、子供会の会長もしていました。長身でスポーツが好きで体力がありました。高度成長期に「24時間闘えますか」との広告がありましたが24時間闘い切った人です。それで体に無理がきたのだと思います。看護師さんは頷きながらメモを取ってくれました。お仕事はとの質問に母がメーカーのエンジニアで海外出張が多かったですと答えました。
 
 確かに私が大阪・神戸にいた子供の頃は1年のうち3分の1は海外出張で家にいませんでした。バングラデシュ、パキスタン、ケニア、イラン、イラク、キューバなど色んなところに行っていたようです。発展途上国が多かったので辛すぎてすぐに辞めてしまった若手もいたそうです。出張のない時も、当時のサラリーマンにとっては普通だったと思いますが、平日に夕飯を一緒に食べることはあまりなかったです。生まれは宝塚の雲雀丘なのだけど小学校に上がる前に目黒の自由が丘に引っ越して大学院卒業するまで東京だったので父はずっと標準語でした。というか、関西が長いにもかかわらず関西弁にしようとするとおかしな感じになるので、子供の頃の私には不思議でした。先生やほかの周りの大人の人とテンポがずれるのでなんかちゃうなぁなんて思っていましたが、中学で家族で東京に引っ越してきてからは私だけがなんかおかしなテンポになってしまいました!とにかく父は不思議な魅力のある人でした。几帳面だけど大胆なところがあり肝が据わっていました。小学生の反抗期に困らせたことはあっても怒られたことはありませんでした。理由はよくわかりませんが、大学の頃に中村天風先生の所(天風会)に通って直接教えを受けたことが大きいと想像しています。一度、父の書斎から天風先生の本を借りて、こんな人がいたのかあと感心・感動したことがあります。当時、祖父が実業家だった関係で天風会に連れて行ってもらったそうです。何かあったらケツの穴ぎゅっと閉めろなんて言っていました。私がアメリカに行って勉強一辺倒だったとき周りの人との交流を大切にするようにとアドバイスしてくれたことは忘れられません。

引退してから父は健康に充分すぎるほど気を付けていたのでまさかこんなに早く倒れてしまうとは思いもよりませんでした。母の心労はいかばかりでしょう。こんな悲しいことはありません。

0 件のコメント: