外出自粛なので自宅で映画鑑賞でもどうですか?今回のエントリーでは個人的におすすめの映画70本を紹介します。映画と聞いてまず思い出すのは小学校1年生の時に神戸三宮の映画館で父と2人で「ドラえもん のび太の宇宙開拓史」(1981年)を観に行ったことです。その日の帰りから高熱が出て、熱がなかなか引かず結局、川崎病と診断され小学校1年生の3学期から2年生の1学期まで神戸海星病院で入院生活を送りました。入院中はドラえもんの漫画ばかり読んでいた記憶があります。小学校高学年になると家庭にVHSビデオ・レコーダーが普及し我が家でもレンタルビデオで映画を楽しみました。スーパーマン、マイ・フェア・レディ、サウンド・オブ・ミュージックを観た記憶があります。とくに「マイ・フェア・レディ」(1964年)、「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年)は母が好きだっのでテープにとって何度も観(させられ)ました。小学6年生の時、5、6人ぐらいの友達と一緒に1人100円出して誰かの家で映画みようということになり、私も100円出したのだけど何かの都合で私は観れませんでした。その時、借りた映画が「ビー・バップ・ハイスクール」(1985年)と「天空の城ラピュタ」(1986年)でした。この組み合わせはあの時代の小6男子にしかできないチョイスだったなあと今では感慨深いです。
中学になってからは勉強と部活で忙しく、映画は不良とお子ちゃまが観るものだと理解していました。ただ、正月映画の「男はつらいよ」は大好きで、中学2年の冬休みには好き過ぎて1人で渋谷の映画館で「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」(1988年)を観に行きましたが、あまり面白く感じませんでした。高校になってすぐにクラスメイトの女の子が「いまを生きる(Dead Poets Society)」(1989年)がすごい良かったから是非観るといいよとすすめてくれたので、週末に1人で初めて新宿に行って途中迷いながらもなんとか時間ぎりぎりに映画館を見つけて「いまを生きる」を観たのはいまでも良く覚えています。学校制度とか教育ということに疑問を持っていたので映画の内容がとても共感でき、こんないい映画があるのか~と感激しました。あの感動は15歳の時にしか味わえない強烈なものだった気がします。アメリカの大学院時代にアイビーリーグの秀才たちと接する機会がありましたが、あの映画で描かれていたようなボーディングスクール育ちの学生気質を垣間見た気がしました。日本でも昔の旧制高校はあのような感じだったのでしょうか。
高校時代も勉強と部活、学校行事に忙しく、映画どころではありませんでしたが、浪人中は打って変わって時間を持て余したので毎日のように映画を観ていました。当時は夜にBS映画劇場(NHK)というのが国内外の名作を連日放送していたのでそれを熱心に観ていました。大学入学後も当時教養学部長で後の学長の蓮見重彦先生の映画論というのを聴講したりして、映画の興味を持続させていましたが、文系の人達の高尚な議論には付いて行けませんでした。個人的には映画への学術的なアプローチには違和感があり、もっと娯楽として単純に楽しめばいいと思います。その点で淀川長治さんと町山智浩さんは最高の映画評論家だと思います。
学部生のころは第二外国語でスペイン語を勉強していた影響でスペイン、イタリアの映画をよく観ていました。大学院でアメリカに行ってからは、ヨーロッパの映画を観る機会は減りアメリカ映画ばかりでした。アリゾナでは家にテレビがなく大学の劇場だと料金が2ドルだったので週2回ぐらい観ていました。ニューヨークに移ってからも格安の劇場(4ドルとか?)に週末通っていましたが、安すぎたためかさすがに途中でつぶれてしまいました。家にテレビを置いてからはテレビでもたまに観ましたがコマーシャルが多すぎてダメでした。2003年ごろから時間に余裕があるとリンカーン・センターにある映画館によく通いました。ちょうど2003年に小津安二郎の生誕100年記念の映画祭があり小津映画を堪能したのはいい思い出です。その時、同じ松竹映画の「砂の器」(1974年)が上映されたのですが、その上映前になんとあの山田洋次監督が橋本忍さんとの脚本制作の裏話などをしてくれて感激しました。小津安二郎の作品はBS映画劇場や蓮見重彦御大の講義などでもちろん知っていましたが、あの時の映画祭で系統立てて劇場で鑑賞できたのはとても贅沢な体験でした。「早春」(1956年)を観終わったあとトイレで中年のアメリカ人にあの映画には人生の全てが詰まってるねえと話しかけられた時は何故か嬉しく感じたもののまだ20代の私はどう返事していいかわからずアルカイク・スマイルでごまかしました。また、「秋刀魚の味」(1962年)の軍艦マーチのくだりをNYで観れたのは不思議な感じでしたが、あのシーンは今でも忘れられません。
中学になってからは勉強と部活で忙しく、映画は不良とお子ちゃまが観るものだと理解していました。ただ、正月映画の「男はつらいよ」は大好きで、中学2年の冬休みには好き過ぎて1人で渋谷の映画館で「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」(1988年)を観に行きましたが、あまり面白く感じませんでした。高校になってすぐにクラスメイトの女の子が「いまを生きる(Dead Poets Society)」(1989年)がすごい良かったから是非観るといいよとすすめてくれたので、週末に1人で初めて新宿に行って途中迷いながらもなんとか時間ぎりぎりに映画館を見つけて「いまを生きる」を観たのはいまでも良く覚えています。学校制度とか教育ということに疑問を持っていたので映画の内容がとても共感でき、こんないい映画があるのか~と感激しました。あの感動は15歳の時にしか味わえない強烈なものだった気がします。アメリカの大学院時代にアイビーリーグの秀才たちと接する機会がありましたが、あの映画で描かれていたようなボーディングスクール育ちの学生気質を垣間見た気がしました。日本でも昔の旧制高校はあのような感じだったのでしょうか。
高校時代も勉強と部活、学校行事に忙しく、映画どころではありませんでしたが、浪人中は打って変わって時間を持て余したので毎日のように映画を観ていました。当時は夜にBS映画劇場(NHK)というのが国内外の名作を連日放送していたのでそれを熱心に観ていました。大学入学後も当時教養学部長で後の学長の蓮見重彦先生の映画論というのを聴講したりして、映画の興味を持続させていましたが、文系の人達の高尚な議論には付いて行けませんでした。個人的には映画への学術的なアプローチには違和感があり、もっと娯楽として単純に楽しめばいいと思います。その点で淀川長治さんと町山智浩さんは最高の映画評論家だと思います。
学部生のころは第二外国語でスペイン語を勉強していた影響でスペイン、イタリアの映画をよく観ていました。大学院でアメリカに行ってからは、ヨーロッパの映画を観る機会は減りアメリカ映画ばかりでした。アリゾナでは家にテレビがなく大学の劇場だと料金が2ドルだったので週2回ぐらい観ていました。ニューヨークに移ってからも格安の劇場(4ドルとか?)に週末通っていましたが、安すぎたためかさすがに途中でつぶれてしまいました。家にテレビを置いてからはテレビでもたまに観ましたがコマーシャルが多すぎてダメでした。2003年ごろから時間に余裕があるとリンカーン・センターにある映画館によく通いました。ちょうど2003年に小津安二郎の生誕100年記念の映画祭があり小津映画を堪能したのはいい思い出です。その時、同じ松竹映画の「砂の器」(1974年)が上映されたのですが、その上映前になんとあの山田洋次監督が橋本忍さんとの脚本制作の裏話などをしてくれて感激しました。小津安二郎の作品はBS映画劇場や蓮見重彦御大の講義などでもちろん知っていましたが、あの時の映画祭で系統立てて劇場で鑑賞できたのはとても贅沢な体験でした。「早春」(1956年)を観終わったあとトイレで中年のアメリカ人にあの映画には人生の全てが詰まってるねえと話しかけられた時は何故か嬉しく感じたもののまだ20代の私はどう返事していいかわからずアルカイク・スマイルでごまかしました。また、「秋刀魚の味」(1962年)の軍艦マーチのくだりをNYで観れたのは不思議な感じでしたが、あのシーンは今でも忘れられません。
日常の会話のなかでユーモアを交えて太平洋戦争について総括をするという離れ業が、淡々とした小津調とともに進行していきます。戦前戦後に活躍した文化人の中でここまでハッキリと戦争について個人的な感想を表現した人がいたでしょうか?表現者としての自負と責任が無いとできないことですが、そのような力みを軽々と超越して、その表現は上品で優しくて悲しくて笑えるのです。まだ観ていない人は一度ご覧ください。
さて、話がまとまらないので、ここで個人的に印象深かった名作映画70本を紹介します。以下の通りです。
リスト作成に当たり制作国別に分類しましたが、時系列に並べ替えたものは以下の通り。
2006年以降は子育てで忙しくて全く観ていません。自分で映画館に行ったのは「風立ちぬ」(2013年)と最近の「Fukushima 50」(2020年)だけでした。それ以外は子供優先で、劇場鑑賞したのはプリキュアとかドラえもん、ディズニー映画だけですね。なんだか悲しいですがそんなものでしょう。
上に紹介したイタリア映画(57~61番)はどれも心に染み入る傑作中の傑作です。このような映画を作れる国民がいま新型ウイルスで大変な状況にいます。我々もどうなるか分かりませんが、せめて昔の映画でも観ながらかの国へ想いを馳せ、外出自粛に努めましょう。イタリアはオペラの国だけあって映画音楽がどれも素晴らしいです。伝統的に映像と音楽への感性が高いのでしょう。モーツァルトのクラリネット協奏曲を聞くといつも「パードレ・パドローネ」(1977年)の中で父が歩いているシーンが思い出されます。
記憶に残るシーンと言えばアメリカから日本に帰る飛行機の中で偶然目にした Napoleon Dynamite (2004年) のダンスのシーンとエンディングには感動しました。初めはよく分からないオタクの日常がオムニバス形式で流れているだけでなんじゃこりゃ、英語の発音も分かりづらいし観るの止めようかなあなんて思っていたのですが、だんだん何とも言えない魅力に引き込まれて、ペドロの選挙応援でナポレオンが1人でダンスする場面はそれまでのモヤモヤが一気に晴れて久しぶりにスカッとしました。そして、エンディングの風景と音楽、エンド・クレジットの最初に日系人の名前が目に飛び込んできて、そうだよなあ、と唸りながら自然と涙が溢れてきました。1998年から7年近く留学生・外国人というマイノリティーとしてアメリカで暮らしてきた経験があったからこその感動だったと思います。
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